【連載第4回のあらすじ】
JR四日市駅無人化の報をきっかけに、駅の変遷をたどる連載企画。
JR四日市駅2階レストラン「こだま」の元従業員の丹羽則夫さんへの取材で、同店の歩みと三﨑秋男社長の人物像が明らかになった。さらに、創業20周年記念アルバムに残された沿革から、開業時期は1962年10月だったことが判明。では、1960年4月末の駅舎完成から開業までの約2年半、2階のレストラン区画には何があったのか?
国鉄四日市駅(現・JR四日市駅)は民衆駅として構想された駅舎である。1960(昭和35)年の駅舎完成時からレストラン区画が存在していた可能性は高い。しかし、それはレストラン「こだま」ではなかった――。
三重県公報に手がかり?
今すぐ調べられることは何だろう。だめもとで、「こだま」社長の「三﨑秋男」の名をインターネットで検索してみた。すると、1件だけ、手がかりになりそうな記録が見つかった。「三重県公報」である。


たどり着いたのは、1964(昭和39)年の三重県公報(号外 昭和39年4月17日金曜日)のPDFファイル。表紙の目次に「米飯提供業者登録」、続いて告示に「三重県告示第251号 食糧管理法施行規則(昭和22年農林省令第103号)第35条の4の規定により、米飯提供業者を昭和39年4月1日次のとおり業者登録した。三重県知事 田中覚」とある。
桑名市の業者から始まるリストの11ページ目にその名はあった。
本町3-85
レストランこだま
(株)四日市観光 三﨑秋男
「四日市観光」という社名は初めて目にするものだったが、この時点では追究せず、まずは時代をさかのぼることにした。三重県は、1887(明治20)年以降に発行された公報を公開しており、県のホームページ上で閲覧できるのだ。


1963年から1959年まで順番に追ってみたが、「三﨑」「こだま」「四日市観光」のいずれも見つからなかった。付け加えるなら四日市駅の住所「本町」という地名そのものが見当たらなかった。
今度は逆方向、1965(昭和40)年をチェック。すると再び三﨑秋男さんの名前が現れた。今度は「四日市観光」の表記はなく、「本町3-85 レストランこだま 三﨑秋男」。
「こだま」の開店は1962(昭和37)年10月とされているため、翌1963年の公報に見当たらない理由については、登録時期とのずれがあった可能性が考えられる。だめもとでたどり着いた公報ではあったが、「こだま」が駅2階に現れる以前の空白を埋めることはできなかった。
中部日本新聞が伝えた民衆駅の誕生
次に目を向けたのが、国鉄四日市駅の完成を伝えた当時の新聞記事だった。1960(昭和35)年4月30日、中部日本新聞は「四日市民衆駅が完工」と大きく報じている。
記事によれば、前年春から総工費1億円をかけて建設が進められていた新駅舎は、鉄筋コンクリート2階建て、延べ約2880平方メートル。名鉄管区内では尾張一宮、岐阜に続く3番目の民衆駅であり、三岐鉄道、三重交通も共同使用する、当時としては近代的な駅だった。


翌5月1日には営業が始まり、ゴールデンウィークの日曜ということもあって通常の5割増しの約2万人の乗降客が訪れたという。新しい駅舎を「りっぱなもんやなあ」と感心する利用客の様子も紹介されている。
その後も、同新聞は新駅舎を中心とした祝賀行事を連日報じた。演芸会、撮影会、のど自慢大会、学童写生大会――。駅の完成は、四日市の新しい玄関口の誕生として盛大に祝われていた。
5月15日には、「四日市観光案内所」が中央コンコース左側の出札場の隣に英文表記の看板を掲げ、外国人旅行者への案内にも力を入れる施設として開かれたとの報道もあった。
「四日市観光」という名前が、新聞紙面上に初めて登場したわけだが、1964(昭和39)年の三重県公報に登場した「株式会社四日市観光」との関係は分からない。そして、探していた「こだま」以前のレストラン(?)の姿は、これらの記事の中にも現れなかった。
駅舎完成時の華やかな様子はよく分かった。しかし、新聞記事からも、駅舎2階レストラン区画の1960年から1962年までの空白が埋まらない。
商店街の世話役を頼る
残された一手は、人に尋ねることだった。
諏訪栄町で仏具店を営み、商店街の歴史や人のつながりを長年記録・発信してきた水谷武生さん(78)に尋ねてみることにした。実は水谷さんは、連載第1回で「こだま」の思い出を「何かの会合の申し込みで行ったような。階段上がった。今思い出そうとすると記憶をでっちあげてしまいそう。ハンバーグとか洋食系?衝立、植栽があった。駅の待合室が見下ろせた」と語ってくれた人である。


水谷さんなら、四日市の商業界で長く活動してきた中で、三﨑家につながる情報を持っているかもしれない。そこで、前回の聞き取りの際には判明していなかった三﨑秋男さんの名前に心当たりがないか、メッセージを送ってみた。
すると、意外な返答が返ってきた。
「『三崎屋』の三﨑昭吉氏だったら良く知っています。諏訪新道にあった肉屋さんですが……関係ないか」。
実は私も、その名前には心当たりがあった。10年ほど前、別件で名刺交換をしたことがある人物だった。改めて三﨑昭吉さんの名前を調べると、運営するNPO法人の所在地が諏訪栄町にあることが分かった。さらに確認すると、その場所には「四日市こだま食品株式会社」という会社も存在していた。
思いがけないところで、「こだま」という名前が再び現れた。そのことを水谷さんに伝えると、しばらくして返信が届いた。
「三﨑昭吉さんは、レストランこだまの社長の甥だそうです」。
まったく予想していなかった形で、三﨑秋男さんにつながる人物が見つかった。水谷さんに仲介していただき、三﨑昭吉さん(66)に話を聞くことになった。
三﨑家が歩んだ商いの道
場所は、水谷さんの仏具店。位牌や仏具が整然と並ぶ店内の奥には、年季の入った応接セットが置かれていた。そこで昭吉さんと向かい合い、インタビューが始まった。
尋ねたのは、まず「三崎屋」のこと、そしてレストラン「こだま」との関係だった。
「1921(大正10)年生まれの私の父の店は、『三崎屋』という肉屋でした」。
昭吉さんによれば、三﨑家は諏訪新道の北側で精肉店を営み、通りを挟んだ南側の発展街には肉の加工場や倉庫も構えていたという。
「北側の店は、戦後間もない頃に始まったと聞いています。パチンコ店を買い取って1階で肉屋、2階では『まいこ食堂』というすき焼きの店を出していました」。
当時の諏訪新道は、まだ近鉄四日市駅が現在の場所へ移転する前で、四日市の中心街だった。


「戦後すぐの頃ですから、外国人のお客さんも珍しくなく、飲食店で働く女性と一緒に来店する人も多かったようです」。
昭吉さんの言葉を受けて、水谷さんも口を開いた。
「並びには『うまいや』さんがあって威勢が良かったね。ネオンを競っていたような時代やったよね」。
昭吉さんによれば、「まいこ食堂」は昭和30年頃に店を閉じたという。「赤線(戦後の公認売春区域)がなくなった頃で、景気も変わって、外国人のお客さんも減ってしまったようです」。
空白の2年半は埋まるのか
その後、三﨑家の商売は枝分かれするように広がっていった。父の兄弟や親戚筋がそれぞれ独立し、市内や周辺地域で店を営むようになったという。
そんな中、三崎屋が肉を納めていた、国鉄四日市駅2階で「こだま」以前に営業していたレストランとの縁から、三﨑秋男さんがその店の経営に関わることになったそうだ。
「駅2階に、『こだま』の前の飲食店があったのですね?」。
私は思わず身を乗り出した。
「ありました。その店の経営が厳しくなって、売掛金と相殺するような形で経営権を譲ってもらった、と聞いています」。
ただし、昭吉さんが語ったのは、あくまで家族から伝え聞いた内容である。レストランこだまが開店した1962(昭和37)年当時、昭吉さんはまだ2歳。「こだま」以前の店舗の名前や経営者については分からないという。
伝聞による不確かな証言ではあったが、「こだま」の前に駅2階で別のレストランが営業していたこと、そして、その営業権を三﨑秋男さんが引き継ぎ、「こだま」を開業したらしいことが見えてきた。
なお、三重県公報に「こだま」と並んで掲載されていた「株式会社四日市観光」についても尋ねてみた。昭吉さん自身も詳しい経緯は分からないというが、「四日市観光という名前を使っていた、あるいは叔父が名前を貸していたようなものだったのではないか」と話す。
また、先に触れた「四日市こだま食品株式会社」は、昭吉さんの父が設立した食肉加工・卸売・販売の会社で、取引先の減少に伴って現在は休業状態にあるものの、会社自体は存続しているという。
さて、ここから先、どこまで空白部分を埋めることができるだろうか。《続く》




