【連載第3回のあらすじ】
JR四日市駅無人化の報をきっかけに、駅の変遷をたどる連載企画。
JR四日市駅の現駅舎建設の経緯を調査。1957年に「民衆駅」として計画され、1960年に完成した駅舎には、街のにぎわいの拠点としての役割が期待されていたことが分かった。しかし、その民衆駅の象徴ともいえるレストラン「こだま」がいつ誕生し、どのような歩みをたどり、なぜ姿を消したのかは、なお謎のままだった。
駅そのものを街のにぎわいの中心に――。
そのにぎわいを1970年代後半(昭和50年代前半)に、駅2階レストラン「こだま」の厨房から見つめていた1人の料理人がいる。
元「こだま」の従業員・丹羽則夫さん(68)。現在は、四日市市文化会館内のレストラン「グリル四日市」のオーナーシェフを務めている。私が初めて丹羽さんと会ったのは、4月下旬のことだった。


「グリル四日市」の原点だった「こだま」
場所は、四日市市内の喫茶店。ランチタイムも終わり、にぎわっていた店内は落ち着きを取り戻していた。あいさつを交わし、名刺を交換する。
「『こだま』の写真は見つからんかったんやけど……」
そう言って丹羽さんが大きな紙袋から取り出したのは、1冊の重厚なアルバムだった。ワイン色の装丁、表紙に大きく金文字で「寿」と書かれている。「こだま」創業20周年を記念して作られたアルバムだった。
「これは持って帰って見てもらってええよ」。
思いがけない申し出だった。礼を述べ、アルバムをテーブルの脇に置くと、まず名刺に記された丹羽さんの会社について尋ねた。
「『グリル四日市』って、『文化会館フードサービス』という会社なんですね」。
すると丹羽さんは、こう切り出した。
「なんでな、『グリル四日市』は、もともとは『こだま』と『大正館』と『白揚』が出資して立ち上げた会社やで」。
耳を疑った。JR四日市駅2階のレストランという認識しかなかった「こだま」が、四日市の老舗料亭旅館「大正館」や、書店を中心にかつてはレストラン事業も手掛けていた「白揚」(現・白揚ブックセンター)とともに、「グリル四日市」を運営する文化会館フードサービス株式会社を設立したというのである。
「こだまの社長は、三﨑秋男さん。面倒見のええ人やったよ」。
懐かしそうに目を細めると、丹羽さんは、自らの修業時代を語り始めた――。


17歳の少年が立った厨房
1958(昭和33)年に鳥羽市で生まれた丹羽さんは、中学卒業後、四日市市の製陶会社に就職。寮に住み込み定時制高校へ通っていたが、この仕事に将来を見いだせず、2年で退職した。
住む場所を失い、行く当てもない17歳の丹羽少年の所持金はわずか300円。「失うものは何もない」とさえ思っていた。国鉄四日市駅構内で新聞紙をかぶって夜を明かした。そんな時だった。
「上を見上げたら、レストランがあった。『ここで仕事さしてくれ』って頼んだら、奥さんが住むところを用意してくれて、3000円を前借りさせてくれて、布団も買ってくれた。もちろん、働いて返したよ」。
丹羽さんが「こだま」で働き始めたのは1975(昭和50)年3月のことだ。国鉄四日市駅の駅舎が完成してから15年。高度経済成長が終わりを告げ、不況が叫ばれる中にあっても依然、駅2階のレストランには活気があふれていた。そこで丹羽さんは料理人人生のスタートを切ったのだ。
厨房では名前ではなく「坊」と呼ばれた。毎朝6時に出勤し、10数本の包丁を研ぎ、ニンジンやジャガイモを10キロ単位で剥く日々。コック全員分の包丁を、どれだけ丁寧に研いでも、「いつまで経っても役者の刀やな(※切れない)」と先輩に嫌味を言われ、歯を食いしばる思いで「丁稚奉公」を続けた。
1年、2年と修業を重ねるうちに、肉を見れば重さが分かり、ハンバーグのたねも手に乗せるだけでほぼ誤差なくグラム数が量れるようになった。


にぎわいの絶頂期
修業に明け暮れる日々、丹羽さんは駅のレストランとして親しみやすい昼の顔と、敷居の高い夜の顔、すなわち高級レストランとしての「こだま」の姿を目に焼き付けていた。
列車を待つ人や買い物客、家族連れのにぎわいが、夜になると雰囲気を一変させる。照明が落とされ、テーブルでは電気式のろうそくが揺れていた。
誕生日などの記念日や、会社の会合、接待などで利用されることが多かったと、丹羽さんは振り返る。クリスマスには特別チケットを販売し、コース料理がふるまわれた。最盛期の月商は2400万円。一晩で170万円を売り上げ、レジに入りきらない札束を足元のみかん箱へ放り込んでいたほどだ。


三﨑秋男社長(右)と24歳の丹羽則夫さん
※画像の一部を加工しています
三﨑社長の流儀
「こだま」を語る上で欠かせない人物が、三﨑秋男社長だ。
買い物に行った先の名古屋で、ベンツを現金で衝動買いし、そのまま乗って帰ってきたこともあったという。
「牛を1頭ばらしてみたい」と言えば、本当に牛の半頭を買ってきてくれた。「半頭でもまな板に乗り切らんかった」と丹羽さん。「頼みごとは、昼を過ぎてからがいい。満腹になって気が緩んでるから。土曜は昼も夜もアカン。忙しすぎるから」と笑う。
しかし豪快な一方で、ニンジンの皮を捨てようとすると「もったいない。(まかないの)赤だしに入れよ」と叱るなど、食材を粗末にすることを極端に嫌った。


レストラン「こだま」の終焉
丹羽さんの思い出話が途切れた時、私はずっと気になっていたことを尋ねた。
「『こだま』は住宅地図上で1994年まで存在しますが、その後、八千代台の『こだま山荘』と共に消えています。最後はどうなったんですか?三﨑社長は……」。
丹羽さんは少し間を置いて口を開いた。
「倒産したよ」。
原因は、ゴルフ会員権事業を巡って約5億円の負債を抱えたことだった。
そして、倒産から数日後、三﨑社長は菰野町の別荘で亡くなったのだという。
「俺も当時360万円貸しとったんや」。丹羽さんは淡々と続けた。すでに「グリル四日市」で料理長となり、家庭を築いていた頃だった。「振り込みがないで、おかしいなあと思っとったら……」。
20年近くに及ぶ付き合いの中で、さまざまな出来事があった。それでも丹羽さんにとって三﨑社長は、17歳で行き場を失っていた自分を受け入れ、一人前の料理人へと育ててくれた恩人だった。


アルバムが覆した仮説
古色蒼然としたアルバムを借りて帰宅した私は、神妙な面持ちで表紙を開いた。
中表紙に、「我が社 こだま之年輪 創業二十周年記念 昭和五十七年十月十四日 株式会社こだま(社印)」とある。
ページをめくると、三﨑社長の直筆と見られる筆文字で、自らの思いをほとばしらせるような文言が記されていた。
寿ほぎ乃よろこび
来しかりしこと忘れたきこと多かりし
「こだま」と共に風雲の二十年
幾多の歳月も早やすぎさりし我が人生
これからも永遠に春風のごとく
暖かく仲良くすごしたい
昭和五十七年神無月
こだま社長 三﨑秋男(印)
その次のページには、上半分に富士山と桜の写真、下半分に「株式会社こだまの概況」として沿革が記されている。1982(昭和57)年、創業20周年を迎えた「こだま」と三﨑社長は、なお順風満帆の時代にあるように見えた。
設立 昭和34年11月26日
目的 イ.食堂 料理店の経営 ロ.ホテル 観光施設の経営 ハ.前各号に関する一切の業務
本社 四日市市本町3番85号
開業年月日
昭和37年10月14日 国鉄四日市駅2階 レストランこだま開業
昭和43年7月1日 四日市カンツリー倶楽部 食堂経営担当
昭和45年10月1日 名古屋都ホテルお好食堂 和食堂開店
昭和51年7月1日 こだま山荘開業 レストラン ホテル経営
昭和54年7月1日 鈴峰ゴルフ場 食堂経営担当
昭和56年10月1日 (株)こだま仕入事業部設立
「ん?」。
1つの記述に目が止まった。
昭和37年10月14日 国鉄四日市駅2階 レストランこだま開業
最初に丹羽さんから電話越しに聞いた話をきっかけに、私は「こだま」は現駅舎完成と同時(1960年=昭和35年5月)に開業したのではないか、と考えていた。
しかし、この沿革によると、「こだま」の開業は駅舎完成から約2年半後になる。


――仮説が崩れた。
では、駅舎完成時からの2年半、駅2階はどう使われていたのか。民衆駅として構想された駅舎である。レストラン区画が当初から存在した可能性は高い。しかし、それが「こだま」ではなかったとすれば――。
丹羽さんの話と1冊のアルバムは、「こだま」の歴史を教えてくれただけではなかった。
新たな謎が生まれたのである。《続く》
※第4回の掲載写真は、すべて丹羽則夫さん所蔵資料および提供写真です。
※「こだま創業20周年記念アルバム」は、冒頭に会社の沿革などが掲載され、その後は写真台紙となっており、丹羽則夫さんが1982年以降の記念写真などを収めていました。



