【連載第2回のあらすじ】
JR四日市駅無人化の報をきっかけに、駅の変遷をたどる連載企画。
住宅地図をたどり、JR四日市駅2階のレストラン「こだま」の営業実態を調査。地図からは開業時期は特定できなかったが、1994年までは営業していたことが判明、元従業員のシェフ・丹羽則夫さんにも話を聞けることになった。
「昭和30年代のことやで。『こだま』はね、高級ステーキを出す店やったんや」という丹羽さんの言葉を聞いたとき、1つの考えが頭をよぎった。
JR四日市駅の現駅舎が完成したのは1960(昭和35)年。「こだま」は、駅舎の完成と同時にオープンしたのではないか――。そうだとすれば、なぜあの簡素で合理的な外観を持つ国鉄の駅舎2階にレストランが設けられたのだろうか。
実際に丹羽さんと会うまでの間、私は現行の同駅がどのような時代背景の中で建てられたのかを調べ始めた。


近鉄四日市駅は「諏訪駅」から生まれた
今、四日市の玄関口として多くの人が思い浮かべるのは、安島にある近鉄四日市駅。しかし、かつて近鉄名古屋線は、国鉄四日市駅(現在・JR四日市駅)に隣接しており、国鉄と駅舎を共有する「合同駅」だった。
一方で、現在の諏訪商店街アーケードがある場所には、後に近鉄湯の山線やあすなろう鉄道となる路線が集まる一大ターミナル「諏訪駅」が存在していた。
当時の近鉄名古屋線は諏訪駅から合同駅へ向かう過程で、市街地を迂回して大きくカーブしなければならず、電車のスピードアップや大型化の大きな障害となっていた。


新たな玄関口の誕生
1956(昭和31)年、近鉄は合同駅への乗り入れを廃止して線路を直線化。これに合わせて諏訪駅を西側の現在地へと移転・集約し、現在の「近鉄四日市駅」の前身に当たる「近畿日本四日市駅」が誕生したのである。
当時の新聞報道によると、9月23日の開業直後には乗降客が10万人を超え、その後も平日で約4万5000人、休日には約5万5000人が利用し、駅ビル内の店舗も好調な売り上げを記録したという(「四日市市史 第十九巻 通史編現代」)。


残された国鉄四日市駅
一方、近鉄線が離れ、国鉄四日市駅は単独の駅として残されることになった。このことによって「人の流れが一変し、商店街への影響は大きいと予想された」と「四日市市史」は記している。
市史が引用する1957(昭和32)年9月1日付「中部日本新聞」は、「お客の流れは近鉄駅から諏訪新道西半分でストップ。国鉄駅付近商店は平均三割の売上げ減」と報じている。
近鉄の分離によって街の重心が西へ移り始めるなか、戦後復興期に暫定整備された国鉄四日市駅の抜本的な改築は、もはや急務だった。


写真には「(昭和)35.4.29旧国鉄四日市駅最後の日 近鉄と共同駅だった」と書き添えられている=門脇篤さん提供
「四日市は名実共に三重県下第一の都市である」
ここに、図書館資料を検索して見つけた1冊の手綴じの冊子がある。
1956(昭和31)年に、四日市市企画調査室がまとめた「国鉄四日市駅に関する資料」だ。
古ぼけた表紙をめくると、中表紙には、「四日市を中心とした國鉄輸送力の強化並びに施設の改良に関する陳情の参考資料書」という題字が、几帳面で丁寧なレタリングで記されている。
「市勢の概要」から始まり、「人口について」「工業について」「港湾について」と章が進んでいく。地図に表、数字が並ぶ資料。「国鉄貨物輸送について」「住宅計画について」「国鉄四日市駅について」――。
ページをめくっていた私の手が止まった。目を引いたのは、「新國鉄四日市駅舎を建築するに当っての希望」と題された項目だった。
そこには、単なる新駅舎建築計画には収まりきらない、四日市の未来への期待があふれていた。
――四日市は名実共に三重県下第一の都市である。
――四日市は現在新たなる段階に際会し、各面に亘って脱皮しつつあり、近代都市様相に相応する駅舎建物たらしめたい。
――近鉄のそれと同程度或いはそれ以上の規模内容としたい。
――その駅舎を四日市の産業、経済、文化の中心拠点たらしめたい。 (以上、同資料・当該箇所から抜粋)
戦災から復興を遂げ、高度経済成長へ向かおうとしていた四日市。その表玄関にふさわしい駅をつくろうという機運が高まっていたことが読み取れる。


「民衆駅」という未来に託された希望
資料を読み進めるうちに、私は1960(昭和35)年に新築が叶うことになる国鉄四日市駅が「民衆駅」として構想されていたことを知った。
「民衆駅」――。現代では耳にすることのないその言葉は、口にすると、時代の空気を孕み、わくわくするような響きがした。「民衆駅」――。現在の同駅からは想像もつかない、未来への期待を背負った計画だった。
民衆駅とは、戦後、国鉄が自治体や民間資本の協力を得て整備した複合型駅舎である。駅の中に「民衆部分」と言われる民間の商店や飲食店などを設けた都市施設として計画された、現在の駅ビルの原型ともいえる存在だった。
戦禍を被った駅の再建が全国で進むなか、国鉄四日市駅もまた、その一端に位置づけられていたのだ。
同資料には「共同使用駅廃止後の当駅の乗降客は増加傾向にある」との記述も見られる。近鉄分離による負の影響が語られる一方で、当時の関係者は国鉄四日市駅の将来に強い期待を寄せていたことがうかがえる。


駅2階のレストランもまた、この構想の延長線上にあった可能性が高い。
新たな駅舎には、単なる交通拠点を超えた役割が期待されていた。
人が集い、買い物をし、食事を楽しむ――。駅そのものを、街のにぎわいの中心にしようとしていたのである。《続く》


